プロフィール

山本ひろこ – 元目黒区議会議員、ITエンジニア、3姉妹のママ、腎移植ドナー

1976年、広島県広島市で生まれました。資産家でも地主でもないし親族に政治家もいない、政治家にありがちな家庭環境とは全く無縁の家庭でした。それどころか、父母は極端な主従関係にありました。

母の結婚生活は、4畳1間のアパートで徹夜で麻雀する父の灰皿交換係から始まり、父が亡くなるまで苦労しっぱなしでした。父はほぼ家にいないですし、たまに居ても威張り散らすか怒鳴り散らすだけ、加えて弟が生まれつき体が弱かったため、母はパートと家事と弟の世話で手一杯、私はいつも1人で部屋で過ごすようになりました。

初めての誕生日プレゼントはパンダ型のレコードプレーヤー。昭和の広島は暴走族全盛期。地元の小学校では体罰横行。チャイムが鳴った時に席についていないだけでビンタ、宿題を忘れたら「もみじ」(手のひらの跡がつくほど強く内腿を叩くこと)、体操服のブルマを忘れたらパンツで参加など、今ではありえないことが当たり前でした。男女どの先生にもユニークな必殺技がありました。一方で、私たちも大人に言えない秘密の遊びをしていました。色んな意味で、厳しいけども監視が少なくて自由な時代でした。

子ども時代から、総じて私は言葉数が少なくて、控えめでしたが、長いものには巻かれず主張する時はする、いじめられたら3倍返しをする、という正義感と負けん気が強い子でした。小学校高学年から太り始め、ショートカットにして男子服を着ていました。私の性格が少年ぽいのは、この頃から変わりません。

地元中学の荒れ具合が激しく、中高一貫の女子校へ進学。漫画オタクでコミケに通う日々でした。高校生になるとJリーグ開幕でハマり、サッカー選手の追っかけをしてみたり、X Japanに夢中になってみたり、学校で浮いていたので、自分なりの別の居場所を見つけて過ごしていました。

大学進学で上京。入学式後に大学の最寄駅から大学に行くバスが大渋滞で乗れなくて、周りにいた子たちとヒッチハイクで登校。近所の酒屋さんが乗せてくれました。こうしてワクワクする新たな世界が一気に広がりました。

ちょうどその頃windows95が発売され、パソコンが一気に普及。入学当時はレポートや論文も、手書きとワープロが半々でしたが、卒業の頃には、皆パソコンを持つようになっていました。
初めてPCを買った時は、Google以前でしたが、インターネットの世界に感動しました。学部のホームページを作ったり、掲示板を作ってコメントしあったり・・夜な夜なインターネットを楽しむ日々でした。電話回線を活用して、「ジーコロロ」とダイヤルアップしてネット接続する時代。もちろん動画なんて見れないですが、こうやって、私はIT大好きっ子になっていきました。

その後、本場のBluesを生で聴いてみたいと思い、いきなりNYとシカゴに飛び立ちます。当初は英語も喋れなかったのに、いきなり1人で飛び立つ無謀な自由人です(笑 そこから海外放浪にハマり、休みを取っては海外放浪を始めるようになります。現地で仲間をつくり、色々なところを訪ねて回りました。安宿に泊まり、屋台やローカルレストランでご飯を食べ、現地の人や他の旅人たちと交流するのが楽しかった。

スペイン語なんて全くわからないのに、現地でCuban Jazzが聴きたい!と、キューバにも行きました。キューバでも、英語が喋れるドイツ人の子や、日本人のキューバ留学生と仲良くなり、ローカルなお家や集会所を案内してもらいました。

ネットが普及する前の時代ですから、頼れるのは、「地球の歩き方」と、「電子辞書」だけでした。ネットが使えなくても、親切な日本人旅行者や、現地人のおかげで、どこに行っても楽しめました。

当時は、図書館や、観光案内所で、1人10分とかいう時間制限付きで、インターネットに繋がるパソコンを無償で使えました。旅行仲間と行列に並んだのを覚えています。そのパソコンから、HotmailやYahoo Mailを使って、家族や友人に連絡をするのです。国際電話なんて高くてバックパッカーには使えないですからね。数年もしたら、ネットカフェがあちこちにできました。こうした海外放浪経験から、アナログとデジタルの双方の良さを、ひしひしと体感しました。日本でも海外でも、いつでもどこでもスマホでググって即自己解決できる現代では、得られない経験です。

そんなこんなで、ITと海外が好きだった私は、猛勉強してネットワーク関連の資格を取りまくり、外資系企業のITエンジニアになりました。資格雑誌にも掲載されました。

その後、目黒区東山小学校出身の日系アメリカ人と国際結婚し、3姉妹の母となりました。夜間や週末の作業もあるようなエンジニア業務でしたし、3人欲しいと思っていたので、育休は1人につき3ヶ月しか取りませんでした。絶対に保育園に入れなくてはと必死で、高額託児所の利用や2園送迎なども経験しました。フルタイムで働きながらのワンオペ育児、年子の2人目が生まれて以来、忙しすぎてほぼ記憶がありません・・

バイクは大学生の頃から乗ってましたが、結婚後は夫婦でハーレーツーリングをよくしてました。子どもができてバイクを手放した後、10年ぶりにフルカスタムのハーレーを作りHotrodにも出品しましたが、早々に事故に遭い廃車に・・(涙

こうして当時保育園入所率ワースト1位の目黒区で、3人娘のために保活、子育てをするうちに、あまりにややこしい行政サービスに疑問を抱きます。そんな中、知人の紹介で参加した自治体財政研究会で、地方自治の役割を学びました。真の住民自治のために、どうあるべきか、子どもにツケをまわさない世の中に変えていくため、どうしたらいいのか、、まさに目から鱗でした。

私の人生の目標はこれだ!と思い、区議会議員選挙への出馬を決意し、手探りでの選挙活動。
ありがたいことに1期目当選。

公民連携学の大学院に通っていたこともあり、その他のご縁もあり、行政視察で日本だけでなく世界中を飛び回り、色々な自治体の行政を学びました。

香港のデモが過激化した頃、トランジットで寄った香港国際空港でデモに遭遇。民主化を求めて、手書きのビラを書きまくる子どもたちもたくさんいました。ものすごくやるせない気持ちで、何時間も見守りました。

大学院メンバーで、イギリス財務省や、ウエールズ自治政府等のPPP/PFI視察に行った時には、どうしてもアビイ・ロードの写真を撮りたくて、早朝ウーバーに飛び乗って、一瞬撮影して即ホテルに戻りました。嬉しかった!

区議の公務でも色々と視察に行ったので、何だかんだで百箇所以上の自治体や政府、関係機関を訪問したと思います。
これまでの人生では考えられないくらい、貴重な経験と、色々な学びを得ました。そして区議会議員選挙の2期目では、なんと、史上最高得票数で当選させていただきました。

2期目はなんと、史上最高得票数でトップ当選させていただきました。同年、目黒区の監査委員を拝命し、役所の全部署、区内の各所を監査して回るなかで、感じたのはとにもかくにも停滞感。

さらに同年、青木区長の区長の息子が、姉の後継として目黒区議会議員に初当選。それ以前も区長の姉が目黒区議会議員を5期20年も務めているのに、今度は息子に引継ぎ・・!青木区長は何十年も目黒区での家族政治を継続し続けようとする、、だから目黒区は現状維持がちょうどいいわけです。「こんな区政を放っておいて良いのか?!」と私の怒りが湧き上がり、その勢いで区長選挙に挑戦しました。・・・が、まさかのコロナウイルス感染爆発。。。初めてのパンデミックに混乱状態でした。結局、緊急事態宣言下での選挙となり惜敗。そしてまた、民間企業のIT職に戻りました。

落選中の3年の間、子ども教室を立ち上げたり、子ども会のイベントを行ったりしてきました。また、人工透析中の夫の体調がかんばしくないため、腎移植ドナーとして、腎臓移植手術を受けました。手術は成功しましたが、私は腎臓が1つになったぶん、皆より健康管理に努めようということで、前にも増して、筋トレに励んでいます。これからも自分がどれだけ社会に貢献できるかを楽しみに、チャレンジングに生きていきます。

後の世代ほど損をする世の中を変えるため、目黒区から新時代を目指して、より一層真摯に活動してまいりますので、どうぞ応援してください。

【学歴】
埼玉大学教養学部卒業
東洋大学院 経済学研究科 公民連携学修士
東京工業大学院 環境社会理工学部 博士課程後期満期退学

【政治歴】
2015年、目黒区議会議員 初当選
2019年、目黒区議会議員 2期目トップ当選
同年、目黒区監査委員 拝命
2020年、目黒区長選挙に出馬し、僅差で落選
その後、再度民間企業のIT職へ。
2023年、目黒区議会議員 3期目3位当選

【目黒区居住歴】
青葉台→大橋→中目黒

【趣味】
筋トレ、バイク(今はレブル250)、海外放浪、
無添加マニア、60~70s洋楽、ハリウッド映画

【好きな食べ物】
アイスクリーム(バニラ、ワッフルコーン)、
たい焼き(つぶあん、皮パリパリ系)、
プロテイン(チョコ系、毎日の日課でもある)、
タイ料理。

【得意な料理】
広島風お好み焼き、豚汁

 

ここまでの長文を読んでくださり、
ありがとうございます✨