義母で女優の「丘さとみ」、死去の報道に際して

推薦人になってくれた「丘さとみ」

今は載せてないのですが、その昔、私のホームページで山本ひろこの「推薦人」になって貰えないかと聞いたとき、快諾してくれ、使ってねと言われた写真が、この写真です。当時70代後半かな。めちゃくちゃ美しいですよね。頂いたコメントは一言。「ひろこちゃんならできる!」でした(笑 マミーらしい。

何歳になってもずっと美しいマミー(義母)でしたが、本年4月にロサンゼルスの自宅で亡くなり、昨日ようやく日本での納骨を済ませました。大昔の女優とはいえ、通算300本もの映画に出演した大女優ですから、最後はメディアに報道してもらい、多くの関係者やファンの方々にお知らせすることが、私ができる最大の供養かなと思っていたので、報道していただけて、とても嬉しかったです。

スポニチ 【俳優・丘さとみさん死去 88歳 心疾患 東映時代劇で活躍した「東映城のお姫さま】

読売新聞【「東映城のお姫様」女優の丘さとみさん死去、88歳…片岡千恵蔵・中村錦之助・大川橋蔵らの相手役】

東京新聞【丘さとみさん死去 俳優】

Yahooニュース等に転載され、多くのファンの方々からコメントもいただきました。

 

「マミーって呼んで」

「丘さとみ」こと義母は、初めて会った時から、「マミーって呼んで」という感じで、いわゆるお姑さんとは全然違う、どこまでも女優な人でした。

80歳過ぎても、出かける時はウィッグをかぶり綺麗にお化粧していて、元が童顔だからなのか、幾つになってもキュートで美しいなぁと思っていました。

いわゆる「お母さん」らしさとは程遠く、世間ズレしてて超自由人だけども、私はそういう所がかえって気楽で好きでした。ひょうひょうとしてマイペースな感じが、自分とどこか似てるようにも思っていました。一方で、自由人ながらも情深い私からすると、理解不能な行動も多かったのですが(^^;;

 

波瀾万丈な人生と、目黒区のご縁

私がマミーや夫から聞いた話では、1953年、高校生の時に初代ミスシンデレラに選ばれ2週間渡米しました。戦後間もない頃ですから、貴重な経験ですよね。ウォルト・ディズニーと会った時に頂いたブレスレットを長年大事にしていました。

卒業後は一旦就職するも、すぐにスカウトされて女優となり東宝映画に約300本も出演しました。が、10年足らずで引退し、米国のデザイナーの男性と結婚。観光名所でもあるサンフランシスコのFisherman’s Wharf sign のデザイナーだったとか。ともあれ、間もなく離婚し、子ども達を連れて帰国。子ども達は当時は都内唯一の帰国子女の受け入れ校であった目黒区の東山小学校に転入。

ちなみに、当時の東山小学校では「帰国子女クラス」(とはいえ半分くらいは日本人)が存在していたそうなのですが、今はそういう分け方はされていません。当時のクラスメイトは長年同じクラスだったので、団結力が強く、今でも仲良しですが、今はそういう分け方をすると差別だと言われるのでしょうね。

はい、マミーの話に戻します。マミー自身は、舞台を中心に再び女優として活動をしながら、様々な仕事を掛け持っていたようです。今よりも働く女性が圧倒的に少なかった当時、祖母と子ども3人との生活を、女手一つで支えたのはすごいことです。厳しい生活でしたから、北大路 欣也さんや松方弘樹さんなど、後輩の俳優さん達が、よく子ども達(つまり私の夫たち)におもちゃを買ってくれたそうです。

私が知っているだけでも、書けないような苦労話は山ほどあり、、波瀾万丈すぎる人生でしたが、家族と暮らす自宅での穏やかな最後となり本当に良かったです。

マミーありがとう!
どうぞ安らかに。。